ご 挨 拶

 第10回日本集団災害医学会は,大阪府立千里救命救急センターが担当させていただくことになりました。今年は,1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の10年目にあたります。その時期に,神戸の地で本学会を開催してはという意見もありました。しかしそのころには,数々のイベントが催されるであろうと予測されましたので,集中治療学会と重複しないように配慮したうえで,この日取りにいたしました。また,開催地としては地元の吹田市で,かつ第11回世界救急災害医学会(WADEM)(1999)の思い出の場所である万博公園前のホテルを選びました。大阪空港(伊丹)や新大阪駅から少し時間がかかりますが,ご寛容いただきたいと思います。
 われわれのセンターは1979(昭和54)年の開設以来,独立型の救命救急センターとして,災害拠点病院として,さらには伝統的にJICAやJMTDRを通じて国際的な災害救援活動にも貢献してきました。節目の第10回ということで,テーマを「過去の検証と次代への啓発」といたしました。
 特別講演は,この学会の提唱者である太田理事長に「-JADM創設10周年- 災害医療の組織化と災害医学の体系化を目指して」と題して,学会のこれまでの歩みと次の世代に託する思いを語ってもらいます。
 シンポジウムとして「阪神・淡路大震災後,何が提唱され,何が実現したか」について検証していただきます。
 もう1つのシンポジウムでは,近未来にやってくると予測されている海溝型巨大地震に関して,特に「医療対応」に焦点をあてて討論していただきます。
 これに先立ち,京都大学防災研究所 巨大災害研究センターの河田惠昭教授に,このシンポジウムの基調となるような特別招聘講演をお願いしました。
 ワークショップとして,(1)過去1年間の災害事例の検証,(2)災害拠点病院の活動,(3)海外医療援助活動事例の検証,を取り上げました。多くの演題が集まりましたので,ゆっくり討論していただく時間がございません。この点どうかお許し下さい。
 海外からの招待講演では,災害医学に対する研究方法,難民キャンプの問題についてお話をうかがいます。
 さらに教育セミナーと題し,(1)津波の問題,(2)透析患者への医療支援,(3)災害医療センターの役割,(4)愛知万博の集団災害対策について,やや多くの時間を使って発表していただきます。ことに(2)については日本透析学会を中心に,確実な成果を上げておられます。このことが今後,特に在宅の酸素療法や人工呼吸患者のセイフティーネットワークの整備と災害時の救援につながることを期待しております。
 このほか,未曾有の災害「スマトラ沖大地震・インド洋大津波」につき,なんとか時間のやりくりをして,緊急報告してもらう予定です。
 今回,全国の災害基幹病院ならびに地域災害医療機関の多くの方にお集まりいただき,お互いに情報の交換ができる場を設け,地域の温度差を可能な限りなくすこと,被災した病院の災害復興(基本法)の検討なども行いたいと考えておりました。しかし,2004(平成16)年の“年の漢字”が「災」となったように,多くの事態が起こりましたので,時間の割り振りができなくなりました。お詫びするとともに,今後の問題として会員各位が認識を持って下さるよう,強く願うところです。
 なお,実体験セミナーは第6回(加来信雄会長),第9回(浅井康文会長)のとき,実に見事な企画の催しが展開されました。私どもが毎年行っております「大阪千里メディカルラリー」のようなものも考えましたが,小さな施設ですので,人不足でとてもできそうにありません。そこで,イギリスのRoger氏の指導によりテロリストの会場内占拠の演習を準備していましたが,彼の訪日が急遽難しくなりました。いささか残念に思っています。この時間は前述の緊急報告と関連の講演に当てました。
 折しも神戸で国連防災世界会議が開かれ,「兵庫宣言」を採択し,災害から国民の生命と財産を守ることを国の第一義的責任であると明記しました。また小泉首相は,今年の施政方針演説の中で,災害に強い国づくり,国民の安全と安心の確保を強調されました。しかし,厚労省の提案した災害派遣医療チーム(DMAT)編成は予算の裏づけがなく,わが国の防災計画の中で,発災後の「医療」に関する政策も,まだまだ十分に構築されるには至っておりません。本学会を通じて今後につながる提言がなされることを祈念するものです。


 さて,一般には「天災は忘れたころにやってくる」というフレーズが人口に膾炙されています。この警句は実験物理学者で漱石門下の随筆家として知られる,寺田寅彦(1878?1935)の言葉として伝わっています。高知市の寺田寅彦記念館に建てられている碑には,同郷の世界的な植物学者,牧野富太郎の筆で,「天災は忘れられた頃来る」と刻まれていますが,私の住んでいる大阪市此花区の「水防碑」には「災害は忘れたころにやってくる」となっています。寅彦は多くの随筆や論文を残していますが,この有名な警句は彼の著述のどこにも見当たりません。どうも,弟子たちが寅彦から聞いたのを,後世に伝えたということのようです(松本哉:寺田寅彦は忘れた頃にやって来る。集英社新書 参照)。
 阪神・淡路大震災後,防災には「自助,互助,公助」3つの歯車がかみ合うことが必要であり,日ごろの心構え=自助が再び見直されるようになってきています。大阪の湾岸地域は(第1)室戸台風(1934,昭和9),ジェーン台風(1950,昭和25)によって多大な被害を受けました。この苦い体験から,祖母は次のようなことをいつもいっていました。(1)家族が離れている場合には,安否をまっ先に連絡してくること,(2)大風が家の中に入ってくると,天井を突き抜けて屋根が吹き上げられるので,風を絶対に入れないようにすること,(3)風の中に出るときは,頭に座布団をのせて出ること(祖母は防空頭巾を用意していた),(4)台風の情報を得たら,おにぎり,飲み水,懐中電灯を各人あて,3日分用意すること,(5)風呂はきれいにして,浴槽一杯に水をはっておくこと(水に水なしといって,水害後は拭き掃除する水もなくなる),(6)物干し竿や植木鉢などをかたづけること。最近,平屋の木造の家が少なくなったせいか,私の近所でも戸を打ちつけ,老人・子供が避難場所に急ぐ姿はほとんど見られなくなりました。
 第2室戸台風(1961,昭和36)のときには,大阪大学医学部附属病院が中之島にあったころで,病院前の堤防から溢れた水がすだれ状の滝となって流れ落ち,病院の地下と1館は水びたしになっていました。環状線の西九条付近は1mほど水に浸かっていたので,私は消防のボートに乗って非常食を配ってまわり,このとき初めて災害時のボランティア活動を体験しました。
 最近大型台風が大阪に来ていないので,市民の防災意識が稀薄になっているのではないかと心配しています。高潮でなく,津波が発生すれば,ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)は大混乱に陥るものと思われます。特別招聘講演の河田惠昭教授は大阪府立大手前高校のご出身ですから,このことを憂いて,南海地震が発生すれば,どれほどのエネルギーのものが,どの位の時間で,どの範囲まで及ぶかをシュミレーションしておられます。
 東海・東南海・南海地震が数10年内に発生し,津波による被害も予測されています。1854(安政元)年の「安政の南海地震」で,津波から村民を救った浜口梧陵の実話が,河田氏の紹介などで再び注目されてきています。和歌山県有田郡広川町(旧広村)で大きなゆれを感じた梧陵は,津波襲来を予感し,刈り取ったばかりの稲むらに火を放ち,高台に誘導して村人の多くを救いました。先の宝永の津波(1707)では死者192名に及びましたが,このときの死者は26名でした。
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は,1897(明治30)年,浜口梧陵を生ける神(リビング・ゴット)として世界に紹介しました。これは「稲むらの火」として1937(昭和12)年から小学国語讀本尋常科用に掲載されました。この中では,地震の後に「風とは反対に波が沖へ沖へと動いて・・・」と書かれているため,津波が来るときは必ず引き潮が起こると思っている日本人が沢山いました。しかし吉村昭の三陸海岸大津波によれば,引き潮のある場合もない場合も記載されており,今度のインド洋大津波では場所により違いのあることが立証されています。
 その後,梧陵は私財を投げ打って,高さ5m,根幅20m,天幅2m,延長637mという三段構えの大防波堤を3年10カ月かかつて,1858(安政5)年に完成させ,現在では国指定史跡となっています。
 この広川町より北に,醤油の町,湯浅町があります。ここも宝永(1707)の津波で,流失破損の家・蔵数628軒,死者54名,安政(1854)の津波で442軒,28名の被害を出しています。この地の深専寺に「大地震津なミ心え之記」という碑文が残っています。全文528字は平易な仮名交じりの文で,大地震と津波の概要を記して,後人を戒めたものです。強い地震のあと,海鳴りが3,4度聞こえたかと思うと,見ている間に海面が山のように盛り上がり,高波が押し寄せてきたそうです。「高波おし来る勢ひすさまじくおそろしなんといはんかたなし」。井戸の水が減ったり,濁ったりすると津波が起こる前兆であるという昔からの言い伝えもありますが,今回はこのようなことはありませんでした。したがって今後,井戸水の増減にかかわらず,「万一大地震ゆることあらば,火の用心をいたし,浜辺川筋へは逃ゆかず,山へ立のくべし」と書かれてあります。
 昭和南海地震(1946,昭和21)であったか定かではありませんが,三重県伊賀市の父の故郷に疎開していたころ,大きな揺れのあと,母が祖母と私を家の中から前の畑につれ出してくれました。そのとき,母屋の大屋根が波のようにうねっていたのを憶えています。そして何より鮮明に脳裏に焼きついているのは,「火をみてきます」と家の中に駆け込んで行った母のうしろ姿です。それ以来,地震を感じる度に私がまず思うのは火元のことです。昭和南海地震のとき和歌山県新宮市では,市街地がほとんど全焼しました。
 最近,被災者や体験者に聞き取り調査をするなどの努力がなされていますが,日ごろ次のような文庫本を読んで取得した災害に対する知識も,何かと役に立つものです。

  •  柳田邦男 『空白の天気図』(新潮文庫)
  •  杉本苑子 『永代橋崩落』(中公文庫)
  •  白石一郎 『島原大変』(文春文庫)
  •  吉村 昭 『三陸海岸大津波』(中公文庫)
            『関東大震災』(文春文庫)
第10回日本集団災害医学会総会

会長 藤井 千穂