JADM abstract Vol.1 No.1 in english


第1回日本集団災害医療研究会 抄録集

    招待講演   Disaster Medicine: What is Our Mission?

            Steven Rottman,M.D.,FACEP

            Professor

            UCLA Schools of Medicine and Public Health

    1.北海道高速道路玉突事故

        札幌医科大学救急集中治療部   浅井 康文

    2.阪神淡路大震災

        大阪府立千里救命救急センタ−  松坂 正訓

    3.サリン中毒の1死亡例

        東京女子医科大学救急部     今 眞人

    4.阪神大震災における病院の脆弱性

        神戸市立中央市民病院      立道 清

    5.医療施設の脆弱性

        国立医療・病院管理研究所    河口 豊

    6.病院災害計画と災害訓練

        聖マリアンナ医科大学東横病院  金田 正樹

    7.地震災害と人的被害想定

        長岡高等工業専門学校      塩野 計司

    8.東京都の災害時救急救助体制−阪神淡路大震災を踏まえて−

        東京消防庁救急医務課      上杉 耕二

    9.兵庫県フェニックス医療計画−阪神淡路大震災を経験して−

        兵庫県立西宮病院        小林 久

    10.災害医療と日本赤十字社

        日本赤十字社          河野 正賢

    11.自衛隊の災害派遣の展望

        防衛研究所           小村 隆史

    12.災害時の報道体制

        NHK大阪放送局報道部     土谷 信夫

    13.医療機関による救護所開設から撤退まで

        筑波メディカルセンター     河野 元嗣

    14.医師会と災害医療

        大阪府医師会          大北 昭

    15.被災地・避難所の医療環境問題

        元宝塚市立病院看護部      黒田 裕子

    16.災害時の医療コーディネート

        神戸市衛生局          坪井 修平

    17.災害医療と国際緊急援助隊

        川口市立医療センター      二宮 宣文

    18.心のケア 

        大阪市立総合医療センター    広常 秀人    

   

Return JADM top page

INDEX

 


1.北海道縦貫自動尾車道における、高速道路玉突多重衝突事故における災害死


札幌医科大学医学部救急集中治療部

○浅井康文、伊藤 靖、金子正光、坂野晶司、奈良 理、森 和久

今泉 均、小林謙二、東海林哲郎

T はじめに:平成4年3月17日(火)、午前8時45分頃(推定)、札幌市と千歳空港を結ぶ北海道縦貫自動車道(道央自動車道)で、車両186台が巻き込まれた、わが国最大の玉突多重衝突事故が発生した。この事故で2名の命を失ったが、この事故の概要とともに、高速道路での災害死について述べたい。

U 気候および路面状況:小雪がちらつき、先行者が巻き上げる雪煙が舞い、地吹雪も発生していた。気温は−3℃ 、風速2m/秒で、路面は積雪2〜3cmの圧雪状態であった。しかしこの時間帯に、わずか10分間程度とはいえ、10cm/時間以上の降雪がレーダーで観察され、気象条件が目まぐるしく変わっていた。

V 概要:平成4年3月17日午前8時45分頃、道央自動車道上り線30.4キロポストの長都川橋上で、観光バスを追い越そうとしたライトバンが、そのバスの後部に接触。観光バスは200m〜300m減速進行し、路肩に停止したが、ライトバンはそのまま走り去った。後続車数台は難無く走り去ったが、その後方でトラック、乗用車、ライトバン3台による追突・衝突事故発生。さらに後方で後続車がスリップし、長都川橋のほぼ中央でタンクローリー車と大型バスが横向きになり道路を遮断し、次々に後続車が突っ込んだ。このように186台の車両が折り重なる状態で巻き込まれ、死者2名、重軽傷者108名というわが国最大の玉突多重衝突事故となった。これだけの大事故で死者が2名と少なかったのは、タンクローリーなどによる火災が発生しなかったことも幸いした。

W 救急活動:消防局の出動状況は、車30台、救急隊など100人であった。その他道県警関係が警察官62人、パトカーなど44台、ドクターヘリなど3機、道路公団職員が17人、作業車は41台、医療機関は医師など10名、救急車1台、自衛隊関係は自衛官36名、レッカー車など16台、民間関係ではレッカー車など20台であった。自力脱出可能な106名は道警の人員輸送車と救急車によって、千歳、恵庭、札幌市内の10カ所の病院に搬送された。車両に挟まれた4人(1人は即死状態)はレスキュー隊によって救出活動がなされた。

X 傷病者の内訳:軽傷者78名、1カ月以上の加療を要した重傷患者30名、死者2名であった。重傷者の内訳は、頚椎捻挫12名、四肢骨折8名、助骨骨折3名、四肢損傷2名、頚椎椎弓骨折、腰椎圧迫骨折、骨盤骨折、肺挫傷、腰部損傷が各1名であった。

Y 死亡例の検討:死亡は2名で、頚髄損傷で1名が即死状態、他の1名はヘリコプター搬送例である。前者は、39歳男性のワゴン車運転手で、大型バスと大型トラックに押し潰された。後者は38歳男性で、大破した乗用車の下敷きとなった。この男性は、救急隊員が到着した時は意識があり、声をかけると反応があったとのことである。救急隊員は酸素吸入をさせて、午前10時13分に、恵庭市消防本部に医師派遣要請。恵庭第一病院と千歳市立病院の医師が相次いで現場に到着した10時30分過ぎには反応も弱まっており、レスキュー隊による救助活動が続行された。いわゆる「ドクターヘリ」は、午前10時42分に札幌医大の屋上ヘリポートを飛び立ち、10分後の午前10時52分に現場到着し、最後に残ったこの患者に対して気管内挿管を含めた、心肺蘇生処置を約17分間施行し、午前11時11分にヘリコプター内へ収容した。ヘリコプター内で心臓マッサージがなされ、12分後の午前11時23分に搬入時心肺停止(CPAOA)状態で当部へ搬送された。直ちに開胸心マッサージを含む蘇生処理を行ったが、心拍の再会が得られず、40分後脳挫傷を含む多発外傷で失った。ドクターヘリの高速道路への着陸に対して、事前訓練が1度も行われていなかったが、高速道路に着陸、患者搬送が無事行われ、高速道路へのヘリコプター着陸の本邦第一例目となった。なお今回の玉突多重事故でtriage tagは使用されなかった。

Z 結論:事故発生後、医療機関への連絡がスムーズに行われるように日頃からの訓練が大切である。また医療側の連絡体制を確立しておく必要がある。こられの高速道路事故時の医療活動の対策として、小規模な事故から、数10台の車の事故まであるが、近くに適切な医療機関がない場合も多く、救出後、現場での適切なtriageを行い、ドクターヘリやドクターカーなどによる搬送も常に考慮して行かねばならない。

INDEX


  2.「災害死のケーススタディ」 - 阪神淡路大震災 -


大阪府立千里救命救急センター

松阪正訓 甲斐達朗 太田宗夫

 阪神淡路大震災で受傷し死亡に至った一症例について,当症例に関わった当時の関係者から聞き取り調査を行い,地震発生から救出,搬送の様子や医療機関に至るまでの当時の様子を再現した。そして当症例がおかれていた状況や環境を検証し,地震災害における災害死の要素について検討を加えた。

 この地震災害では,Search&rescueの面で,急性期の被災地消防機関の救助能力が,極悪の環境と限られたマンパワーのため,極めて低下していた。また地震発生後早期の外部からの救助チームの参入はなく,地域の救済は住民自身の救助活動に依存していた。Triageの面では,多くの救護所や避難所でトリアージスタッフが存在しなかった。また救出後トリアージを受け病院へ搬送されても,混乱の被災地病院では現実には点滴をして寝かせておくだけが精一杯であることが多く,二次や三次のトリアージがなされずにいた。Transportationの面では,道路の寸断や渋滞のため陸路搬送は極めて長時間を要し,患者や物資の有効な移送手段が欠如していた。Treatmentの面では,急性期の被災地病院で,マンパワーの不足,医療物資の備蓄不足,ライフライン途絶による検査機器や治療機器の停止のため,医療の質と量の低下が避けられなかった。また,挫滅症候群など平時の診療では見られない傷病が多発し,医療者の知識不足も存在した。また,震災でうけた精神的ダメージのため,積極的な医療の受容ができないケースも存在した。以上のことは全て地震災害における災害死のリスクファクターであると考えられた。

 今後,災害直後における地域の救助能力を向上させるため,消防機関は防災計画を再検討し,また地域の住民教育も必要である。また,救助チームやトリアージチーム,医療チームなどを被災地外部から早期に参入させる体制が必要である。陸路にたよらない輸送搬送システムの樹立が必要で,特にヘリを利用した空輸の検討が望まれる。また,病院では防災計画を再検討し,物資の備蓄や通信の確保が必要である。また,災害医療の特殊性として,患者にも医療者にも莫大な精神的打撃が存在していることを忘れてはならず,心のケアが必要である。

 

INDEX

 


3.サリン中毒の一死亡例


東京女子医科大学救命救急センター

今 眞人

はじめに

1995年3月20日に死者12名、重軽傷者あわせて6000名あまりをだした東京地下鉄サリン事件に関連して、当院には心肺停止状態(CPA)で搬送された1名を含めて70名以上の患者が搬送され、うち23名は入院となった。事件発生はおおむね7:50AMから8:30AMの間に発生であり、東京消防庁に第1報が入ったのが8:09AM、当救命救急センターホットラインを介して第1報が入ったのが8:50AMであった。

第一報の内容は「同時多発テロにより多数の負傷者が出ている」といったもので、その原因その他詳細に関しては不明であった。今回CPAで搬送され、約20時間後に死亡した1例を通じて、地下鉄サリン事件に関連した医療体制の問題点を検討した。

症例

患者は54才の男性、地下鉄丸の内線池袋行きに乗車、通勤途中に事件に巻き込まれた。中野坂上駅から8:40AMに救出されたが、すでに心肺停止状態であり、救急隊により心肺蘇生術を施行され、救急車に搬送され現発した。しかしその直後、救急車内で蘇生にあたった41才、21才の両隊員が、呼吸困難、吐き気等の症状を呈し増悪したため心肺蘇生継続が不可能となった。隊長はやむなく心肺蘇生を中断、救急車の窓を全開ににしたまま9:15AM当センターに到着した。この間約30分間以上心肺蘇生は行われなかった。また蘇生にあたった救急隊員2名は入院となり、機関員は外来治療を必要とした。

入院時現症

意識レベルJCS300、心電図モニター上フラット、血圧触知不能、瞳孔径は左右ともに1mmと縮瞳、刺激臭があった。ALSを開始、30分後Vfとなり、DC200J施行、洞調律となり血圧安定したため10:10AMにICU入室となった。同時点での情報ではアセトニトリル中毒の疑診であった。

入院時検査

Ch-E0.33(正常0.6〜1.2)、動脈血液ガス分析ではFio2 1.0、TV500でPH6.993,PaO2 27907mmHg,Paco2 71.6mmHg、BE15.8であった。EEGは平坦、胸部は湿性ラ音が聴取された。

Dopamine,Dobutamine,Norepinephrineにて昇圧するも持続できずEpinephrineを追加持続投与した。

入院後経過

11:00AM頃、中毒原因物質がサリンとの情報が入り、硫酸アトロピンの持続静注を開始した。

一次的に自発呼吸出現、瞳孔は散瞳傾向であり、EEGでは除波が出現したが対光反射は認められず、8:00PM瞳孔径は8mmと散瞳しEEGは再度フラットとなった。

体温は上昇を続け、3月21日、1:00AMには42℃を記録した。入室以後尿量は0であり、利尿剤には全く反応しなかった。5:00AM頃より全身に紫斑出現、口腔内より暗赤色の分泌物排出、PaO2は徐々に低下し、6:05AM心停止、6:35AM死亡確認となった。

問題点

今回の報告症例を含めその問題点を検討すると、

1)密閉された地下鉄車内で致死的高濃度のサリンを吸収した。

2)衣服に付着したサリンにより、救急車内の隊員全員が中毒症状を呈した。(搬送途中の二次災害)

3)結果として心肺蘇生中断時間が30分以上におよんだ。

4)病着時には情報は何一つなく、防護、除染に対しては無防備であり、衣服の除去を行った看護婦、看護助手等が中毒症状を呈し、4人が入院した。(病着後の二次災害)

結語

1.地下鉄サリン事件によるサリン中毒の一死亡例を報告した。

2.的確で迅速な治療を行うためには、情報を統括し収集分析する機関が必要であり、その伝達システムの確立が不可欠である。

  1. 患者搬送に際して、二次災害を予防しつつ安全に搬送できる手段を検討すべきである。

INDEX

 


4.阪神大震災における病院の脆弱生


神戸市立中央市民病院 救急部長

立道 清

 平成7年3月施行の兵庫県立保健衛生部の実態調査で、被災10市10町の180病院を対象として、全壊4(2.2%)、半壊12(6.7%)を含む何等かの補修を要するもの120病院(66.1%)の存在が明らかになった。MRIに影響を受けた病院は70.0%、CTスキャン29.9%であった。

 建物の一部が破壊され全体として使用不になった病院、また、建物の構造自体に大きな被害はないもののライフラインの破壊により病院として機能を多く失った例も多い。前者の例として神戸市立西市民病院を後者の例として神戸市立中央市民病院を挙げて病院の脆弱生について検討した。

1 病院構造の破壊−西市民病院の例

 病院の旧館五階部分の崩壊により、44名の患者と3名の看護婦が閉じこめられた。患者に一人の犠牲者をだし残りの人達は救出されたが、作業は難渋を極めた。入院患者133名を転送入院患者より他の病院に移し、基本的に病院機能を中止した。

 入院患者の犠牲1名と、病棟の破壊という惨事の中の出来事としては幸いにして少ない被害と考えられる。しかし、地域の中核病院としての機能は失われ、外来患者の受け入れも十分にできないとして言う結果は、特にこの病院が被害の最も大きかった長田、兵庫地区入院患者の位置した事からその影響は大きかった。

 病棟崩壊の原因は、7階建ての5階までが昭和45年に建てられ、その7年後に6・7階部分を増設したものであり、今回の震災で明らかになった増設部分をもつ建物の脆さの一典型例である。更に、昭和56年以前耐震基準による建造物でもあった。

 建造物の破壊はライフラインのそれと異なり再建に長い年月を必要とし、また、犠牲者数も多くなる可能性を持っている。

2 ライフラインの破壊−神戸中央市民病院の場合

病院の基本構造には大きな被害が認められなかった。建築は昭和56年3月に完成したが、重要度の高い基幹病院であることを考慮に入れ、建物の基礎として千本を越える鋼管杭を40メートルの深さの海底岩盤にまで打ち込み、通常の建物の150%設計荷重を見込んだ。昭和56年の新耐震基準を先取りした設計であった。このことが被害を少なくさせた理由であった。しかし、基本的には設計当時の耐震基準震度5度(地道加速度80〜250ガル)を部分的に残しており、主としてそれらの点から、ライフラインに破壊が生じ、病院機能に大きな影響を与えた。その例として水を考えると震度を5に想定した高置水槽の破壊が残存した貴重な水を失わせた。給水途絶の影響は多岐に亙り、医療機器類の使用、自家発電装置の運転、圧縮空気、蒸気(消毒、厨房、暖房)の作成、トイレ用水、等に支障を来した。

3 医療機器の損壊−一般的に

MRI、CT、血管造影装置、等大型医療機器の破壊が多くみられた。

固定方法の基礎となるべき知識が十分でない事の反映と思われる。また、多くは地下に配置されるRI機器の安全性に関することなど、今回の震災に於ける多くの事実を吟味し、理論づけるべき課題を残している。

INDEX

 


5.「医療施設の脆弱」


国立医療・病院管理研究所

河口 豊 

はじめに

 兵庫県南部沖地震で6000人を越す人々が犠牲となった。多くは建物崩壊による犠牲であり、人々を保護すべき建築物が原因となったことに建築に関わるものとして残念でならない。また負傷者の治療に当たるべき病院がライフラインや建築・設備などの要因で十分機能しなかったことにも、医療施設の施設計画を研究するものとして強い反省の念をもつものである。

地震の大きさとしては戦後よりも大きな地震を経験したが、直下型しかも大都市近辺は始めてであり、各種の要因が重なり被害を大きくした。しかし各種の要因が重ならないことを祈るばかりでは多くの犠牲者に報いることはできない。次の災害に備えた方策を施すことが重要であると考える。

1.構造体としての建物

 物理的建造物としての耐震性については、それまでに経験した地震力を考慮し1950年建築基準法により基準が設けられた。しかし、戦後間もない時期で地震力の資料が乏しく、また鉄筋コンクリートの建物は少なかったため、その後に増加する建築物に対応しきれなかった。52年十勝沖、64年新潟、68年十勝沖と大きな地震を経験し、建築基準法が71年に改正された。その後さらに74年伊豆半島近海、78年宮城沖地震を受け、特に仙台という大都市の高層ビルが被害を受けたのを景気に新しい構造計算の考え方を導入し、新耐震基準(81年)を設定した。

 世界中の地震力の資料が蓄積されてきたこと、コンピュータの利用によってより複雑な構造計算が容易に解析できるようになったことなどによる。このように安全と経済の両側面をもつ建築は経験則により発展してきた。建築基準法は考えられる最大の地震等の災害に対して、本来建物は被害を受けるが、人命に被害をだすことを避けるように定められている。例え破壊されても急激な倒壊に至らず、建物全体が粘り強くなるよう改正されてきた。今回また新たな大きな経験をした。結果としては71年以前の建築物の被害が大きかったし、81年以後の建築物の被害は比較的軽かった。しかし既存建物に対し、新基準が遡及しないのが問題とされている。1階が崩れ看護職員が死亡したM病院は竣工後30年以上経ち、5階が押しつぶされ患者の犠牲がでたN病院は新耐震に沿うように補強工事をしているところであった。耐震診断と新しい補強手法開発が望まれているところである。

2.機能としての病院

 病院の建物が崩壊するような被害を受けていなくても医療施設として機能しなければ意味がない。病院の機能を施設面から見ると設備と機器、物品となる。これを要因別にすると、@病院外部からの供給、A病院内部の設備・機器の工法、B物品の保管・備蓄、C施設マネージメント、からなる。

 @については兵庫県災害医療実態調査(兵庫県調べ)によれば、ライフラインの寸断から供給停止となり多くの機能が損なわれた。このうち、電気・電話は比較的早く回復した(前者:当日80%以上、後者:当日60%強、7日90%強)が、水道・ガスの回復はかなり手間取る地域が多かった(前者:当日30%、7日60%弱、後者:当日50%、7日60%弱)。これは広域的課題で個々の病院が対処できる問題ではない。これをも病院独自で解決しようと考えると莫大な投資となる。

非常用電気設備、3日分位の水の確保で対応する事になろう。

 Aは院内で例えば配水管のずれやスプリンクラーによる漏水など設備の部分的破損があり機能を継続できなくなったり、X線機器がずれたり、転倒して使用不能になったりした。

 Bは医薬品など災害時に必要な物資が不足した(医薬品:当日70%弱、7日90%弱)。

これの供給が交通事情で一部途絶えたり、情報不足で偏ったりした。

 Cは建築や設備など点検・運用をできずに機能が低下した病院もあった。

建築側として病院単位を改善できるのは主にAであり、地震による建物の変形に柔軟に対応できる設備、床・壁・天井にしっかり機器が固定される工法の見直しがされている。

特に重量についての考え方を整理している。

 しかしこの機能は日常診療とほぼ同程度を求められた場合であり、兵庫県南部地震のような広範囲にわたる地震の時に48時間以内の災害医療を実施する場合は、被災地内病院に高度な手術などをもともときたいできないのではないだろうか。むしろ、いかに早く復旧し機能を回復できるかのための計画となろう。

今回の地震ではその意味では、職員や応援の人々の活躍に負っているが多くの病院は災害医療に機能したが、復旧に手間取った病院は少なくなった。

INDEX

 


6.病院災害計画と災害訓練


聖マリアンナ医科大学東横病院

金田 正樹

1985年9月今世紀最大の都市型地震災害と言われたメキシコ地震は死者1万人、負傷者4万人の人的被害をもたらした。日本から救援医療チームの一員として参加した縁者の目に最も印象的であったのは地震直後から被害の少ない病院に多数の負傷者がおしかけパニックに等しい状態になったことである。 川崎市周囲人口19万、密集する工場と人家に囲まれたベット数約350床の演者の病院でも地震の際はメキシコと同じようなことが起こるかもしれない。この教訓をもとにメキシコ地震の翌年から年1回地震災害を想定した災害救護訓練を実施している。今回、当院における病院災害計画と災害訓練について述べる。

1.病院災害計画

 当院における災害医療マニュアルは地震災害を想定し作成されている。その内容を要約すると、

(1)地震災害時の行動

  これは震度別に全職員の行動をマニュアル化したものである。例えば、震度4で院内は準非常勤務体制とし、対策本部を設置し負傷者の受け入れ体制を敷く。震度5では非常勤務体制としトリアージ班、救護班などの医療チームを結成する。

(2)非常出勤

   震度5以上では全職員を非常出勤とするが、義務とはしない。事前に徒歩、自転車、バイクで1時間以内に来れるスタッフをリストアップしている。

(3)救護所の設定

   院内の各外来、講堂、食堂、リハビリ室などをトリアージ色に配置しそこへのスタッフ、器材薬品の設定もあらかじめ決めている。

(4)災害用備蓄

   各階のナースステーションにヘルメット、懐中電灯、メガホン、携帯無線などをワンセットにした防災備品ロッカーを置いてある。また、非常食は3日分、ミネラルウオーター4000 の備蓄と2台の中型ポータブル発電機、5台のポータブルテレビなどを非常用に備えている。

2.訓練

  この訓練の最大の目的はトリアージを全職員に体験してもらうことにある。日常診療とはまったく違った行動を要求される中でチームワークと臨機応変な判断を体得することが重要である。模擬患者班(50名)、トリアージ班、搬送班、救護班に役割分担を決め、模擬患者には外傷を中心とした症状と所見を書いた紙を渡し、事前に演技指導をする。診断はあくまでもトリアージ医が行う。トリアージタッグに所定の項目が記載され、トリアージされた患者は搬送班によってあらかじめ決められた救護所(重症、中等症、軽症の看板のある所)へ搬送される。ここではバイタルサインを再び取り、点滴やギプス固定などの治療を行う。

実際に災害が起こった場合、訓練と同じ行動がとれるとは思えないが、毎年訓練することによってその趣旨を理解しておくことが最も大切である。

INDEX

 


7.地震災害と人的被害想定


塩野計司

(長岡工業高等専門学校)

1.はじめに

 「地震による人的被害想定」といえば、死者数と負傷者数を推定することが課題になっている。これは、ごく自然なことのようで、しかし、これでいいのだろうか、と疑ってみたくなることでもある。疑いのもとは、つぎのような素朴な疑問にある。死者は、始めから死者なのだろうか?負傷者は、決して死なないのだろうか?

 地震による死者の中には、地震(物的な破壊)の発生とほぼ同時に、なんら手を施す間もなく死亡する人もいるだろう。負傷者の中には、治療を受けるのが多少は遅れても、命には別状のない人もいるだろう。このような「静的」な分類が可能な犠牲者について考えるためには、従来の被害想定による結果でも、それなりに利用することができる。

 しかし、地震の「直後」と呼ばれる時間のあいだに、負傷者から死者へと急速に状態を変える人もいるのではないだろうか?負傷を負いながら建物の中に閉じこめられ、捜索・救出のあいだに衰弱する。救出されたとき、その人は生きているかも知れない;死んでいるかも知れない。緊急医療、とりわけ救命・救急活動という観点に立てば、このような事象について記載する。(発生件数も含めて)ことが大切であろう。これが達成されて、始めて被害想定ができたといえるのかも知れない。今のところ、このような「動的な想定」の実現には、遠く及ばない。

 この稿では、従来の被害想定の枠組みのなかで、負傷者の発生予測に関する話題を2つ述べてみる。ここでの議論の対象は、災害が一段落した状態での「負傷者」に限られる。したがって、以下に示す事柄は、「急性期」における医療活動の詳細について考える材料としては、決して十分なものではない。その反面地震による負傷者の発生状況を巨視的にイメージし、災害医療体制の大枠を考える手がかりとして利用するためには適しているように思われる。

2.負傷者の総数(その上限)

 地震による「ゆれ」が強ければ、負傷する人の割合は増えるだろう。このような傾向を定量的に捉えるために、負傷者の発生率と震度の関係を調べてみた。1964年から1983年の20年間に発生した地震を対象として、市町村を単位としてデータを収集した(図1)。

 図1には、震度ともに負傷者の発生率も高まる様子が、大まかな傾向としてではあるが捉えられている。また、負傷者発生率の上限が、図中の太い直線で表せそうなことも分かってきた。負傷者の発生率は、震度4の範囲(3.5以上、4.5未満)では0.01%のオーダー、震度5(4.5以上、5.5未満)の範囲では0.1%のオーダーにあった。

 震度が4〜5の範囲での傾向を震度6(5.5以上、6.5未満)の範囲にまで引き延ばしてみると、負傷者発生率の上限は1%(100人に1人が負傷)のオーダーに達することが分かった。このような傾向は、福井市(1948年、福井地震)や神戸市(1995年、兵庫県南部地震)の被害とも調和するものだった。

3.程度別の負傷者数(入院を要する患者の割合)

 負傷者の分析には、死者の分析にはない難しさがある−死者は単純に数えればよい;負傷者は「けが」の程度を考えながら、数えなければならない。

 入院の必要性という側面から「けが」の程度を分類し、1)入院が必要な者と、、2)医師による診療は必要だが、入院の必要はない者に分けて、それぞれの発生率を調べてみた。このように簡単な分類でも、災害時における医療機関への「負荷」を見積もるときの役に立つのではないかと考えた。

 分析に必要なデータは、宮城県沖地震(1978)による仙台市での被害に注目して集めた。「ゆれ」の強さは、住宅の被害率によって測ることにした。住宅の被害率は「(全壊棟数+0.5×半壊棟数)/全棟数」のように求める。住宅の被害率は0.1%〜10%の範囲(震度にすれば4〜6の範囲)に分布していた。

 分析の結果、1)入院が必要な負傷者の数は、入院を必要としない者の1/10程度(8.7%)であり、2)この関係は、震度が4〜6の範囲にあれば「ゆれ」の強さにかかわらず一定であることが明らかになった。

 兵庫県南部沖地震(1995)では、建物の倒壊率が10%はおろか30%を越えた地域さえ出現した。震度で見れば7に相当する。ここで紹介したデータ(震度4〜6に対応)が、震度7の地域での状況とどのような関係にあるか−興味深い問題である。

4.おわりに

 近年、地震被害の想定は、対策との連結性を高めることを念頭において、被害の内容を具体的に、しかも詳しく捉えようとする傾向を強めている。人的被害の問題であれば、原因別の死傷者数(負傷者の種類や程度との関係も深い)を問題にしたり、地震の発生時刻の影響を考慮することなどが試みられている。

ただし、被害想定の「進化」による対策への連結性の向上というアイディアはあるものの、連結性の改善に向けた具体的な手順の検討が十分に進んでいるわけではない。とりわけ、対策を組織・担当する人々とのコミニュケイションの欠如が大きな問題になっている。このシンポジウムは人的被害想定の現状や発展の方向性について、災害医療に直接に関わる人々からの批判や示唆をいただくための絶好の機会であり、たいへんに貴重なものと考えている。

INDEX

 


8.東京都の災害時救助・救急体制


− 阪神淡路大震災を踏まえて −

東京消防庁 救急部

救急医務課長 上杉 耕二

 救急業務は、社会経済活動が複雑・多様化する中で、高度化する住民ニーズに対応すべく、医療関係者等の御指導と御協力の下、順次体制整備が図られてきた。

 特に近年は、プレホスピタル・ケアの充実を目的とした救急救命士制度の創設を契機として、高企画救急車をはじめ高度処置資器材の導入やホットライン等を活用した救急医療機関との連携強化などその業務の高度化を鋭意推進しているところである。

 阪神・淡路大震災は、不幸にして甚大な人命と財産の喪失をもたらしたが、同時にあらゆる行政機関に対する防災や危機管理体制についての問題提起でもあった。

 とりわけ、直下型地震の切迫が指摘されて久しい首都東京において、第一線の防災を担う我々東京消防庁にとっても学び取るべき数多くの教訓を残した。震災対策は、従前より当庁の最重要課題として、初期消火対策を中心に様々な施策を講じてきたが、今回の震災の教訓を踏まえ、これを検証し、さらに必要な対策を検討するため、震災後いち早く「震災対策特別委員会」を設置し、全庁的に議論を重ねた。ここで得られた検討結果は、現在、見直し作業が進められている地域防災計画や来年度の都予算編成の中に反映し、震災への備えをより確かなものとしたいと考えている。

 本日は、このうち救助・救急対策について、震災から得た教訓や課題とこれを踏まえた対策の概要について発表する。

 (1)被害状況の早期把握

   ・地震被害予測システムの拡充整備

   ・ヘリテレビ、衛生通信の活用

   ・救急医療情報システムの耐震化

   ・病院調査班と都民への情報提供

 (2)救助活動体制の強化

   ・「ハイパーレスキュー隊」創設構想

   ・都民用・消防団用救助資器材の整備

   ・救助・救急の連携強化 −消防隊用救急資器材

 (3)救急救護体制の強化

   ・仮救護所の運営強化 − 非常用救急資器材の増強

   ・トリアージ

   ・都民への救命講習の普及

   ・「東京消防庁災害時支援ボランティア」の育成

    

 (4)後方医療機関への搬送

   ・「第2線救急車」「特殊救急車」の増強

   ・救急ヘリコプターの積極的活用

  

 

INDEX

 


9.「兵庫県フェニックス計画における医療対応


−阪神・淡路大震災を経験して−」

兵庫県立西宮病院救急医療センター

小林 久

 阪神・淡路大震災では、災害による医療需要の急増に現行の体制や施設等が十分に対応できず、また、交通渋滞や通信システムの脆弱さ等のために患者搬送が有効に活用できなかった。そこで、1995年2月に「兵庫県災害医療システム検討委員会」(会長:小濱啓次 川崎医科大学教授)が設置され、7月に「兵庫県災害救急医療システムのあり方」がまとめられた。以下に概要を述べる。

1.災害医療情報・指令システムの整備

 1)兵庫県災害医療情報・指令センター

    兵庫県における災害救急医療システムの拠点として、国際防災センターとの連携のものと、県立防災センターの施設として整備する。

 2)地域医療情報センター

    二次医療圏に1か所ずつ災害医療情報の収集・提供を行う地域医療情報センターを整備し、医療機関の空床状況、対応可能な診療科目、手術の可否等診療応需情報等の収集一元化を図り、災害時には、医療マンパワーの派遣要請等において行政機関とつなぐ救急医療機関の災害医療統率者と保健所長が協力しつつ、円滑な搬送等の業務を行う。

 3)広域災害医療情報ネットワークの構築

    災害医療情報・指令センターと地域医療情報センター、近隣府県、国の機関、搬送機関、自衛隊等関連機関間を複数の通信手段で結び、患者の搬送を円滑に行えるよう広域災害医療情報ネットワークを構築する。

2.災害医療センターの整備

 1)高度救命救急医療の提供

平時においては、兵庫県における救急医療の中核施設として、総合病院との連携のもと、多発外傷、脳血管障害、循環器疾患のほか、広範囲熱傷や急性中毒等の特殊疾病患者を対象とした高度の救命救急に対応する。また災害時には被災地において収容しきれない患者のため    の病床を確保し、手術をはじめ挫滅症候群患者に対する血液透析等救命医療にあたるとともに、医師の派遣を行うなど被災地の医療ニーズに対応する。

 2)搬送基地

災害医療センターの敷地内にヘリポート、駐車場を有する搬送基地を整備し、搬送用車両による陸上輸送に加え、ヘリコプターによる航空搬送や船舶による海上輸送等の確保を図り、被災地からの患者を受け入れるとともに、他府県等の医療機関への搬送を行う。

 3)備蓄センター

災害直後に必要な救急用医薬品、一般常備薬、慢性疾患用の医薬品等、さらには食糧、水、LPガス等を備蓄する備蓄センターを整備し、大規模災害時には、搬送基地の車両、ヘリコプター等により被災地の医療機関等に搬送する。

3.地域における救急医療機関の整備

 1)初期救急医療機関の整備

小中学校区を単位に、(略)医薬品等の備蓄機能を備えた災害に強い医療機関の配置を検討する。 

 2)広域救急医療機関の整備

二次医療圏毎に、現在二次あるいは三次救急医療機関として機能している救命救急センター等地域期間病院を防災都市にふさわしい備蓄施設、貯水施設、自家熱源、搬送手段、通信手段等を備えた災害医療の拠点として複数か所整備する。

4.搬送システムの整備

救急患者や救援物資等の搬送については、救急車、鉄道郵送に限らず、巡視船等による会場輸送やヘリコプターによる空路輸送の確保を図る。そのため、概ね、市町区域に1カ所ヘリポートを整備する。

5.医薬品等備蓄システムの整備

医薬品等の備蓄については、災害医療センター内に広域備蓄センターを整備する。

6.その他

1)災害医療の研究(略)

2)災害医訓練(略)

  

INDEX

 


10.発災直後の災害医療体制


日本赤十字社 事業局技監

河野 正賢

1:医療救護タイムスケール

 発災直後の被災地は、生存被災者同士が互いに救出しあい、応急手当を施し合って脱出し、避難を始めている。被害が甚大広域である程現地は、早期から外部支援が必要であるにも拘わらず、大規模災害である程、支援開始は遅滞師、その間現地は孤立無援のまま放置される事が避けられない。我々は此の期間を「Phase-0」(支援不能期)と呼び、その短縮を最優先目標とした体制を整えている。外部支援が現地で機動し始めた時期「Phase-1」と呼び、緊急医療や患者後送、物資補給などが系統的統制のもとに同時進行されなければらならないと考えている。「Phase-1」は発災後48時間以内に完了させなければ、被災負傷者の死亡が激増する。

被災地では2昼夜以降も在留する負傷者や避難者への医療が続く。これを「Post Phase-1」と呼び、医療ニーズが外科系から内科系に移行する時期と据え、対応に変更と修正を加えている。「Phase-1」に後方病院へ転送された患者に専門的緊急治療を行う時期を「Phase-2」と呼び、収容患者の生死はほぼ2週間で決着すると考えている。生存社会復帰へ向けての長期に亘る支援期間は「Phase-3」と呼び、医療以外に社会的支援が大きい意味を持つと考えている。

2:被災地地域内病院の災害医療体制

病院には施設や職員に損害があっても、被災患者に実施しなければならぬ「3対策」があり、更に自病院の損壊修復が追加される。通常診断を災害医療に切り替えて、被災患者の大集団に対応するには院内に「災害対策本部の設置」が必要であり、院内各職員では行動指令を待つ迄もなく、「予め合意された対応処置」を即刻開始しなければならない。又、災害医療完遂には十分な人力を必要とするので有時の「職員緊急参集体制」と「配置計画」策定は不可欠である。

3:被災地外病院の災害医療体制

通常、負傷被災者はPhase-0から後送され始めるまで、被災地外では「早期緊急収容」が必要となり、「医療支援要因の緊急派遣」は、迅速なPhase-1展開に欠くことが出来ない。然し、医療支援を調整すべき「現地災対本部の機能」が確保されぬ限り、統括された支援効果を発揮し得ずに即応災対機能補完体制」が計画されていなければならない。被災地域外病院」の被災地医療支援は、通常診療を継続し乍ら病院機能の相当部分を災害医療に転用せねばならぬ為、本来の病院業務に与える影響が大きい。迅速支援の成否は、被災地域外病院全職員の「支援熱意」と、病院長の決断にかかっている。被災地医療を支援する病院が抱える深刻な問題の一つに「支援経費弁済保証の有無」がある。災害救助法の適用がなければ経費は弁済される当てはなく、摘要となるか否かは被害が確認されるまで予測すらつかない。放置状態の被災地に、Phase-1を迅速に展開する為には、災害医療を担当する「病院の不安を軽減する法的認許」が必要であり、現行法規の拡大解釈がゆるされぬ限り、発災直後の被災地医療支援は円滑に実施し難い。   

INDEX

 


11.自衛隊の災害派遣の展望


防衛庁防衛研究所

小村 隆史

 自衛隊の災害派遣活動は、現在、大きな転機を迎えている。近年続発する大規模災害、特に阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件を踏まえて、昨年11月末に決定された新しい「防衛計画の大網」おいては、大規模災害対策は、国土防衛、国際貢献と並ぶ3本柱として、明確に位置づけられることとなった。又、人命救助システムや救護活動セットなど、従来認められなかった災害派遣用装備の導入や、映像電送システムや防災用無線機の前倒し導入など、装備面の充実も急がれている。

今後の大きな課題は、組織横断的な関係機関との連携など、具帯的な運用のあり方を積めて往くことであり、いわば、総論から各論・具体論の検討の段階へと進展しつつある。

 防衛庁防災業務計画では大規模災害時に防衛庁(自衛隊)が行う活動として、@被害状況の把握、A避難の援助、B避難者等の捜索救助、C水防活動、D消防活動、E道路又は水路の啓開、F応急医療、救護及び防疫、G人員及び物資の緊急輸送、H炊飯及び給水、I物資の無償貸付又は譲与、J危険物の保安及び除去、Kその他(自衛隊の能力で対処可能なもの)、の12が規定されている。尚、事の性格上、具体的な派遣の規模や期間、派遣地域や能力等は、状況と関係機関との調整によるものとされている。言うまでもなく、災害対策の一義的な責任は、被災自治体にある。その為、自衛隊側からは、災害対策に関して積極的に動けないという制度的な制約がある。要請があれば、自衛隊側として、実践的な防災訓練の仕方や指揮所運用の仕方といった、具体的なノウハウを提供することも可能であり、むしろこれらを介して、関係機関との連携が深まることを期待している。

 自衛隊の具体的な運用のあり方を共に考える上で最大の障害は、自衛隊の実情がよく知られていないということにある。自衛隊の持ち味としては、「自己完結性」「組織力」「航空機動力」等があるが、これらを支える各種の条件については、必ずしも十分に知られていない。期待と現実との間に極めておおきなギャップがあり、このギャップは、今後、地域防災計画を具体的に詰めていく課程で、遂次埋めていかなくてはならない。

災害医療に対する自衛隊の取り組みは、ようやく第一歩を踏み出した段階である。しかしながら、元来、災害医療のかなりの部分は軍事医療の経験の中から産み出されたものであり、実際、自衛隊の衛生科隊員は、トリアージや治療・後方系統といった概念についても、一通りの教育訓練を受けており、また師団衛生隊等、被災地に展開可能な医療衛生部隊もある。今後の課題は、このような自衛隊の医療・衛生資源、広くは捜索救助から兵平 支援にいたる自衛隊の各種能力をコアとし、どのような形で関係機関との現実的かつ具体的な連携を考えていくかにあるように思われる。

INDEX

 


12.災害時の報道体制


NHK大阪放送局 報道部副部長

土谷 信夫

1.災害の規模:阪神大震災は、死者6300人余り。負傷者3万6千人余り。避難者派ピーク時に30万人を越える大災害。この災害によって、電気、ガス、水道、電話のいわゆるライフラインをかつてない被害を受けた。まず電気は、震災当日に神戸を中心に、最大でおよそ100万戸が停電。ガスは、地震直後、ガス漏れ通報が多い地域で、供給を遮断。次第に供給停止戸数が拡大。震災3日後の20日には、80万戸を越えた。水道は、電気と同様に、震災当日におよそ100万戸で断水。電話は、震災当日、神戸を中心に28万回線余りで不通となった。中でも、ガス、水道は、地中の埋設管が、つなぎ目ではずれるなどの被害があちことで発生。破損したガス管に水が入ったりして修復に手間取った。都市部の直下で起きた大地震ということで、ライフラインなどの、都市機能が直撃された。

2.生活情報の内容変化:当初は、被害の全貌がわからない中で、これまでNHKが災害の際での報道で積み上げてきた経験をもとに、生活情報を送り出していった。しかし今回の震災が、日本のテレビが遭遇した過去の災害と最も違う点は、神戸の被害が激しすぎたため、神戸の情報がほとんどといって良いほど把握できずに、情報の空白域となったこと。つまり全体状況がかなりの時間が経つまでわからなかった。

取材する側で問題となったのは、取材の方法が限定されたこと。まず被災地に電話が通じない。そのために、どうしても電話が通じるところの情報に頼ることになる。具体的に言えば、ライフラインで言えば、大阪ガス本社、関西電力など、本部機能があるところから、まとまった、話を聞くことになる。現地の具体的な細かい情報がないままに、総論的な状況しかわからないという状態に置かれた。こうした状況下で、当初は生活情報を切れ目なく出していくのが精一杯だった。ところが次第に取材体制が整い、被災地の中に多くの記者、取材クル−が入っていった結果、それまで出していた生活情報だけでは、被災者のニーズに質、量共に完全には応えていないことがわかって来た。都市の様々な機能が一瞬にして破壊し尽くされたことによって、被災した人たちは、我々が想像もできなかったような、ありとあらゆる生活情報を必要としていることを知ることができた。たとえば、人工透析者。震災の被災で阪神地区の病院が一部倒壊するなどの被害を受けていることは、被災地の被害を知るための、通常の取材の中でわかっていた。そのために震災で怪我をした人たちの治療が順調に進んでいないであろうことまでは、考えが及ぶ。人工透析の装置は、水、電気などが平常どおり供給されなければ、動かすことができない。しかし患者は、定期的に透析を受けなければ、生命にかかわる。ライフラインが停止した都市は、人工透析の患者たちにとって、まさにライフラインが打ち切られた町になっていたわけだ。そうした厳しい状況の中で、どの病院に行けば透析が受けられるかは、患者たちに何よりも大切で命にかかわる生活情報だったと言える。こうしたことは、現地で取材を続けるうちに深刻さが明らかになった。現地の混乱した中で、行政のサービスが思うにまかせないことも、マスコミの被災者向けの生活情報提供の必要性を増すことになった。NHKで放送した生活情報としては、以下のものがある。「避難所の案内」、「給水車や給水場所のお知らせ」、「出産受け入れの病院」、「人工透析患者への呼びかけ」、「営業しているガソリンスタンド、スーパーマーケット」、「大学入試の変更」、「銭湯の営業場所」、「コインランドリ−」、「銀行などの金融機関」、「遺骨の引受け場所」、など多岐に渡った。これだけ並べてみても、ライフラインが絶たれた中で都市に住む人たちが、生きるために様々な情報を求めていたことが伺える。また被災した人たちが求める情報も、震災から時間が経つに従って、変化していった。最初は命をつなぐための情報。そしてきょうを生きるための情報。更に不自由な中でも少しでも快適に過ごすための情報。ニーズの変化にあわせて生活情報を出していく必要があった。もちろん被害程度が過去例がないほど深刻だったことによるが、NHKとしてもこれだけ多面的に、しかも長時間繰り返し情報を送り出したことは初めての経験だった。

<今後の課題>@

 まず、被災者のニーズを的確に把握するいうこと。先程、従来型の生活情報と今回の震災で提供した生活情報の違いを説明したが、震災直後は、それほどニーズがはっきりとつかめていなかった。被害の全体像がつかめないことに苛立っていて、たとえば、「何人の人が亡くなったのか」、「火災はどこまで延焼するのか」といった取材に、かなりの力を注いでいた。率直に言えば、そうした混乱した状況の中で、被災者たちが今何を求めているのかといったところまで、十分に心が配られていなかったという反省のある。時間が経つに従って、ニーズもわかってきて、多様な生活情報をたすことができた。しかし、震災直後にも、何が求められているのかわかれば、もっと早い段階から情報を提供することができた。震災の映像の中で、特に印象的だったのは被災地の学校の校庭に被災者が「水が欲しい」と大きく書いているのを、上空のヘリコプターが捉えていたこと。当時水道は断水していたが、各地からの応援で、かなり数の給水車が現地に入っていたので、飲み水まで困っているという認識を持っていなかった。ところが被災地では、「給水車がどこにいる」「どこに行けば飲み水がある」という情報が不足していたために、場所によっては深刻な事態となっていたわけだ。災害時には、被害程度を伝えるニュースと生活情報の二つが、NHKの災害報道の車の両輪となる。中でも都市が丸ごと被災したとも言える今回の震災では、被災者に対する生活情報の提供が、一人一人の命が救う、生活を守る大切なものだったことが身に染みてわかった。震災の経験を生かして、「こういった状況では、どういう情報が求められるのか」蓄積していくと共に、記者全員が、そうした被災者の置かれた状況とニーズまで考えが及ぶような、想像力を日頃からブラッシュアップしていく必要があると痛感する。

<タイムリーな情報の提供>A

これまでにも述べたことだが、その時々に、被災者が求める情報は違っている。初期の段階では、「どこに逃げればいいのか」「どこで怪我の手当てができるのか」といった、直後、生命の危険に関わる情報が必要となる。これは大変緊急性が必要な情報で、言われるまでもなく、NHKとしては、最大限その使命を果たさなければならない。そして、生命に関わるという点では同じでも、全員に共通した危険はないがその個人にとってみれば、その情報がないと致命的だということがある。人工透析患者とか、妊産婦が必要としている病院が、これにあたる。いわゆる社会的な弱者に対しての情報提供は、初期の段階から全力をあげて取り組まなければならない。また直接的な危険が去った段階で必要とされる情報もある。避難生活が長期化する中で「どこに行けば風呂に入れるのか」「洗濯ができるのか」。命に関わらないからといっても、被災者一人一人にとっては、こうした情報も貴重。また、たとえばガスでいえば、最初は「どこで供給を停止している」という情報で、被災者のニーズに応えることができた。しかし時間が経つにつれて、今度は「いつになったら自分の家がある地域の供給が開始されるか」が、被災者の最大のニーズとなった。このニーズには必ずしもうまく応えることができなかった。大阪ガスでは、供給停止世帯の解消時期については明らかにしていたが、ではどこの地域がいつ解消されるかという点については、見通しが難しいとして公表しなかったためだ。もちろんそうできなかったのにはやむを得ない事情もあったとは思うが、被災者のニーズに応えていくためには、ライフライン事業者や行政機関など関係者の協力と連絡が不可欠。我々が日々のニューズを送り出す際、弱者の視点を忘れないということを常に念頭においているが、災害報道では、被災者の立場を、どこまで廬ることができるかという点が、最も大切。そしてそのニュースに応じて、時機をを得た、いわば旬の情報を提供していくことを考えていかなければならない。

INDEX

 


13.−医療期間による救護所開設から撤収まで−


筑波メディカルセンター病院救命救急部

河野 元嗣、大橋 教良

 当院は3次救命救急センターを有する218床の中規模救急病院である。阪神淡路大震災において救護所を開設、運営、撤収した経験をもとに、一医療機関として限られた条件の中でなし得る、集団災害亜急性期の医療救援活動について考察した。

[救護所開設までの経緯]1995年1月17日、震災発生。1月26日、神戸市衛生局に直接医療救援を申し出た。1月27日、神戸市より要請があり、初めての災害救援なので、JMTDR経験者を特に指名し、先発隊を組織した。1月31日、医師1名、看護婦及び看護士(以下看護師)2名が神戸に赴いたが、空路岡山経由9時間を要した。以降救護所撤収までの23日間、医師2名、看護師7名、少人数で4〜15日間と比較的長期の勤務形態を取った。遠隔地で短期の交替は非効率的であり、診療中の感触から、ある程度滞在し顔なじみになることが重要と判断したからである。

[救護所の運営]神戸市衛生局を通しての救護所開設なので、保健所の指揮下で活動を開始した。開設当初、電気は復旧していたが水道、ガスは不通で、水洗トイレは使用不能であった。近隣で診療していた開業医は15に過ぎなかった。われわれの任務は神戸市内の小学校の避難所(250人)内に救護所を常設し、更に近くに避難所(100人)へ定期巡回をすることであった。第1の仕事は、配給薬剤、医療用品の整理であった。これらを集約し救護所で一括管理した。第2は避難所の環境整備であった。@布団の下にマットレスを敷くことによる保温A1日1回窓開け換気を提案した。更にB病院の募金から電子レンジを寄付した。第3はネットワーク構築であった。保健所を核に、地元医療機関、医療救援ボランティアとの連絡網を確保した。精神科巡回チームには大変お世話になったが、2、3日で交替するので、患者は多少不安だったようだ。われわれの救護所では2月1日から2月21日まで24時間体制で、新規116名、延べ211名の診療にあたった。開設当初は3名の患者が入院を要し、避難所内重傷者のピックアップに努めた。これが一巡した後は、受診のついでに、いろいろな話を長々と聞かせてくれる、話の聞き役であった。また、慢性疾患の医療継続の需要も多く、可能な範囲内で薬剤を処方した。まさに、及世紀から慢性期への橋渡しを演じた。 

[撤収の経緯]滞在中に水洗トイレが使用可能となり生活環境は改善していった。当初250名いた避難民も180名に減少した。発災から1カ月を目処に、全国各地から現地入りしていた医療救援は撤収の方向で動き始め、神戸市も同様の方針を示した。一方、われわれにも限界があり、2月22日、保健所の巡回診療に引き継いで、常設救護所を閉所した。紹介状を16枚発行し、地元医師会医療機関へ医療継続を委託した。帰路の不通区間は兵庫−灘間のみであった。

[送り出した病院側の問題点]派遣に先立ち、病院管理部門と交渉し、出張扱いとした。1月31日から2月22日まで23日間延べ80日・人、旅費ほか経費総計約67万円を要した。派遣に伴う日常業務の補 は、救急外来当直、ICU当直、看護師勤務、管理婦長当直の変更を要し、病院全体の協力が必要であった。

[考察及び結語]@人的、金銭的に余裕の少ない一医療機関であっても、可能な範囲内に活動を限定すれば、医療救援に参加できる。今後、医療救援体制を整備普及させて行く際に、障壁の少ない活動形態と思われた。A亜急性期の医療は、復興期へ目を向けバランスの取れた医療が必要であり、そのためには個々バラバラに現地入りするのではなく、市役所、医師会あるいは日赤などの現地の責任ある機関を通して参加すべきである。

INDEX

 


14.〜 医師会と災害医療〜


大阪府医師会理事

大北 昭

 昨年の阪神大震災に対し、私達大阪府医師会として災害対策本部を設置し、約2.5カ月間に行った救護活動をふまえ、園反省と今後の広域災害にた硫黄する諸策について述べる。

 急性期(直後の3日間)には情報収集の困難さ、交通の渋滞、支援チームを編成するも要請がなく自主的出動のみ、医薬品・衛生在庁の手配、転送患者の受入れ体制の整備、大阪府救急医療情報センターにて約2,500床、災害対策本部の設置、NHKを通じて大阪における受入れ体制ありのPRを行ったが、その間、大阪には大学系列の個人的な要請や関連病院間の患者搬送等によって、まだ少数の患者が運ばれただけだった。

 3日目の夕刻よりやっと一部の医療機関や兵庫県医師会等との連絡がとれ、また、応援に出られ帰阪された医師からも情報が入りはじめ、被災者数十万人という大震災(広域火災を伴う)の実態が把握されてきて支援のため、対策本部が日本医師会の前線基地・近畿医師会連合と合同して本格的な援助活動が始まった。発生後4〜7日目に大病院・私病院の協力で4,500床の空床確保、医薬費hh・衛生材料のトラック便出発(延べ6便)、人口透析患者(挫滅症候群、慢性期)の搬送受入れ(523件)、新生児・妊産婦受入れ病院確保(628件)、ヘリコプター搬送(92件)、船便の利用、他府県の医師ボランティアより医薬品補給の要請に対応、現地病院でのナース、事務職員の交代要員派遣等を行った。

 1月26日からは2カ所の救護所(東灘区御影高、魚崎小)を設置し、24時間体制での診療を病院関係チーム、及び募集したボランティア医師、ナース、薬剤師の協力で行った。加えて二次災害に備えての障害保険加入、救護所診療から発生する医事紛争に対処するための賠償保険加入を行った。救護所では劣悪な環境より生じた感染症、慢性疾患患者への対応、心のケアの必要性から電話による「心の相談」を始めた。

 私達医師会の集計によれば、2月7日までの被災地3週間で大阪府下の医療機関での被災地患者の入院受入れ3,818人、外来患者7,634人を数えた。また災害対策本部から出務のボランティア延べ946人に達し、それ以上の希望申し出があった。このボランティアで4カ所(2カ所は大学)の救護所を受持ち、延べ出務日数160日、11,748人の患者」を現地で診療した。

一方、私達医師会の立場としては現地医師会員の早期復興への協力という問題があり、発災後3週目より東灘区医師会、神戸市医師会と数回の会合を持ち、できるだけ速やかな被災地医療機関及び救急体制の復興に協力した。

 以上の経験から、今回のような広域大災害にはこれまでのような局地的な考えでは対応しえないということで、いくつかの反省が浮かび上がった。

1.情報の収集、確度、制御、伝達のいずれの点に関しても大阪府救急医療情報センターを中心として医療機関の複数情報ルートの確保、また要請なしで出動しえなかった反省から府下を8ブロックに分け防災機関病院の設置及び地域病院群・医師会との連携により情報なしでも患者を送れる体制、非被災地機関病院でのトリアージを具体化をたおと考えて準備を進めている。

2.Three-Tを消化し得る救急医を軸とする専門家並びに施設を組織化する必要あり。

3.平時救急医療体制が災害医療体制の基盤であることを再認識する。

4.府県を越えて少なくとも近畿圏で災害医療対応を考えるべきと近畿の医師会と話し合いを進めている。

5.救急医療のマンパワー、資源に恵まれた大阪で、大阪版FEMAを策定し近畿圏での有効利用を考える。

なお、これらに加えて、情報・救助・搬送・備蓄・道路規制ヘリコプター運用、ヘリポート、指揮系統等に関し、関係機関と十分な連携を行い、より具体的なものを作り上げ、府市防災計画の中に盛り込み、また大阪府救急医療対策審議会への提言を行い、加えて近畿6府県医師会、行政との連携により、広域災害対策へと発展させ、今後来るべき災害への対応とした。  

INDEX

 


15.被災地・避難書の医療環境問題


元宝塚市立病院

副総婦長 黒田 裕子

 宝塚独自の救護所を設置し、24時間体制で医療活動を1カ月間おこなった。今回、救護所での医療活動を通して、人的環境、物的環境、避難者の住居的環境に対してどのような配慮を実施したかを述べてみたい。

救護活動

1.救護所の設置まで

私は4時に起床し、本を読んでいた。その時、時計の針は5時46分だった。大きく左右に揺れ動くその揺れは、今でも忘れることは出来ない貴重な体験であった。

AM6時05分、宝塚市役所に行き、外部よりかかる電話の対応をおこなった。すでに総務部は長は来庁ししており、職員は3名であった。緊迫した電話の向こう側の声は、私の耳元で今でも残っている。そんな混乱状態の中、屋外にも少し、明かりがおびてきた。時間が経過すると共に、職員数も増え始めた。このような大変な状況の中で、「看護婦ひとりでも多く必要とすること」電話は他の職員に任せ、他にすることがあると思った。私は、ある部長に「私を車に乗せて、市内を巡週させて下さい。家の下敷きになっている人、負傷を何とかしなくては−お願いします。」と言ったが市内のガス漏れがひどい中では、車を出すのは危ないとの答えだった。が、その内、消防隊より「市内にある病院(救急病院4つ)が患者が殺到している。何とかしなくては死者が増える」との要請があった。その時、ある部長より「黒田副総婦長、総合体育館を臨時救護所センターにしては・・・」と相談を受けた。その時、針はAM8時過ぎだった。私は「賛成」と叫び、ひとりでも多くの命を救いたいと願ったから・・

宝塚市立病院に行き、救急に対応出来る器具、薬剤を用意すると共に、人的配慮も要請した。外科医2名、内科医2名、看護婦2名を連れて、体育館へむかった。総合体育館は、応急処置(入院設置ができるようにもした)・死体安置所(死体の検案もおこなった)ともなった。

2.救護センターでの医療活動

17日AM9時、受診する人(患者)の安全確保するために、救急対応する者に対してのオリエンテーションをおこなった後、医療活動をした。この時、医師5名(健康センター長)であった。混乱を防止するために、指揮者を一人おいた。開設と同時に圧死状態の方、骨折患者内蔵破裂の疑いのある患者と様々であった。このような状況下で、特に必要なのが、患者の緊急度評価を行うことであった。重傷者の受入れを宝塚市立病院とした。総合体育館と宝塚市立病院との連絡は、ワゴン車のピストン運転が行われた。

3.避難所での二次災害予防

救護センターも、夕方になると避難場所ともなった。市内でも一番大きいな所であるため、多いときで1100人の避難者がいた。このような状況の中で、考えたのが二次的災害であった。

@二次的災害防止のための環境整備の管理、A感染予防のための管理、B衛生面の管理、C安全面の対策等々、また、、身体的ケア、メンタルケアをも含めておこなった。

救護センター開設から閉鎖までの間におこった救急活動での、問題点は数多くあったが、次に向けての学び多き貴重な体験であった。

INDEX

 


16.災害時の医療コーディネート


神戸市衛生局 坪井 修平・神戸市西市民病院 目黒 文朗

1.本庁衛生局の役割

震災直後より、国内外から多数のボランティアの申し込みが殺到した。1週間後には国の指示によって、全国自治体病院・国立病院・大学病院等から計画的に支援医療スタッフが派遣された。本庁の衛生局はじめ各機関の担当者は、その対応に忙殺された。また、医薬品の確保・救護班への配布、医療機関への医療用水・給食の支援、市内医療機関の情報収集、国・県・医師会・歯科医師会・薬剤師会・他部局との連携に努めた。

2.北区、長田区等における医療コーディネート

当時演者の勤務する保健所のある北区は、激甚地区ほどの被害はなく、多くの医療機関は、当日より診療可能で、他区から転送される入院・外来患者を受け入れた。当初、断水のため、とくに人工透析用水に困り、水道局に給水車の手配を依頼した。給食や医薬品についても相談があり、情報・交通の寸断に悩みつつ本庁衛生局と協議しながら対応した。 

 翌18日からは、要請により、自宅にある長田区の救護活動を支援した。21日以降は北区に戻り、コメディカルスタッフと共に、東灘、灘区の支援にも行った。

 神戸市では、9区9保健所が救護活動・医療コーディネートの拠点となった。平常業務を中止して被災者救援に全力を挙げ、就中訪問活動等で管内を熟知する保健婦が重要な働きをした。1,400人を越える最多の死者を出したH保健所では、所長・保健課長・市民病院内科部長が司令塔となり、救護活動や医師会・歯科医師会との連携が円滑に行われた。

3.被災者の疾病分類

 診療数は、27万人を越え、ピークは1月26日で1万人に達した。内訳は、感冒等呼吸器疾患68%、熱傷・外傷15%、胃腸疾患6%、高血圧・心疾患4%、等となっている。支援者については、自治体・病院・医師会など159団体、医師延べ1万5千人、看護婦2万5千人、その他1万5千人を数えた。要治療者の医療機関情報は、主として保健婦が提供した。なお、1月末より、医師会の協力を得て、避難所対象のインフルエンザ予防接種を実施した。

4.救護から地域医療へ

 1月26日に29%であった医院再開率は、2月10日には64%まで回復した。救護所では次第に高血圧や糖尿病、心・肝・腎疾患など慢性疾患の対応に追われるようになった。しかし、充分な検査設備も医薬品もないこともあって、救護活動を縮小し、医療機関へ移行する必要性に迫られた。保健所が避難所管理責任者、救護スタッフ、区医師会等のコーディネーター役となり、国・県とも協議を重ね、3月初旬には医療費一部負担金の免除も決定したこともあって、徐々に救護活動は縮小され、4月末日、救護体制は終わりを告げた。

5.市民病院群の実情

 中央区の人工島にある1,000床の中央市民病院は、橋とモノレールの被災により、、持てる機能を充分には発揮出来なかった。長田区にある370床の西市民病院は、圧壊により全入院患者の他院への転送を余儀なくされ、外来診療のみ行った。西区にある500床の西神戸医療センターは、被害が少なく、西市民病院はじめ激甚地区の入院患者や外来患者を受け入れた。西市民病院では、4日頃から外傷患者から内科系とりわけ季節柄感冒など呼吸器疾患患者の来院が多数を占め、ついで消化器疾患が多く見られた。

6.精神科・歯科救護

一般医科とは別に、精神障害者や心的外傷後症候群PTSD、スタッフの燃えつき症候群に対応するため、1月22日から激甚被災6区の保健所に精神科救護所が開設されていった。歯科救護は、1月20日を皮切りに市内外の歯科医師会、大学病院のスタッフによって、常設10カ所、巡回20チームが設けられ、4千件の診療が行われた。

INDEX

 


18.「災害精神保健におけるpreparedeness、prevention、mitigation」


大阪市立総合医療センター 児童青年精神科 

広 常 秀 人

T.災害と精神保健管理

 1987年、「国連総会決議42/162」は1990年からの10年間を「国際防災の10年(IDNDR)」とする決議を採択し、世界中の自然災害による被害を軽減する取り組みについての開始を宣言した。その採択を受けて国連では、災害下での精神保健管理をも災害保健計画の中での重要な課題の一つとして位置づけている。この約20年間、災害精神医学は諸外国において重要な領域として様々な研究がなされ、その成果としていくつかの国々では、災害時の精神保健に関する政策やプログラム作成が行なわれてきた。しかしながら日本では災害に関する精神保健管理の実践的なプログラムはまだ未整備の領域であり、今後の早急な実現が望まれるところである。当日は日本での災害精神保健管理の実現へのささやかな寄与を願っていくつかの提言を述べたい。

U.「災害」と「心のケア」の多次元性

 災害下におけるいわゆる精神面への支援について話題にする際、そしてそれが特にさまざまな専門家によって語られるとき、語られる職種の専門性によってさまざまな概念の広がりを持つ 。それは「人」があらゆる専門性の研究の対象となっているからであり、専門分野それぞれ特有の「心」やmentalityに関するとらえられ方がなされているからだと思われる。このような「心」の多次元性に加えて、災害が人間社会のあらゆる位相にわたって破局をもたらす多次元的な事象であるために、災害における「心のケア」は包括的な多次元的取組みが求められよう。演者は臨床精神科医であるために、ここで述べる「心のケア」は、より(精神)医学モデルに基づいたものであり、社会全体や集団からみたものよりもより個人的レベルのものとなり、より病理性の高い部分に焦点が向けられた精神保健分野になると思われるが、さらに政策や危機管理上のシステム論、ボランティア論、社会現象論や社会学的観点などが追加考察されることが必要とされる。

V.災害サイクルと災害精神保健 

 災害サイクル、およびWHOが災害保健における最重要課題項目として強調するpreparedness(備蓄)、prevention(予防)、mitigation(緩和)の概念は災害精神保健領域にも有力な指針を寄与するものと考えられる。備蓄、予防、緩和は災害発災後相互が密接に関与し合いながら、次に襲うであろう災害に向け災害サイクルを巡っていく。すなわち復興期に心理的問題の緩和策に努めることそのものが、以後の災害に対する予防と備蓄につながっていくといったようにである。(発災)〜亜急性期に「心のケア」がどれだけ有効に機能するかどうかは、発災前の備蓄と予防にかかっている。例えば、発災後いかに早く組織的な精神的援助チームが被災地域内外で編成でき、いかに効率的に被災地域に入ることができるか、「心のケア」の提供者がどれだけ災害時の訓練を平時に受けているか、被災者が自分の精神的問題を抵抗なく語れる雰囲気が、平時の精神保健の中で社会にどれだけ育まれているか、などといったことである。しかしながら災害発災という厳然とした事実を前にしたとき、この時期の最重要課題は緩和である。

 これらの備蓄、予防、緩和についての具体的な方策については、WHOなどの超国家的組織が紹介したものがある。これらを日本の国民性や各地域の独自性を細やかに考慮して、防災計画の中に取り入れて行くことが今後早急に求められる。今までの災害精神医学領域の研究は、主に西欧社会で行なわれてきたものであり、日本にどれだけ適用可能なのかが検討されねばならない。例えば感情表現は民族によって随分異なり、社会が許容しうる感情表現の範囲にも差が見られるであろう。また日本の場合、個人の感情や内面を他者に表現することには「恥」の感覚が伴う人々が多いとも考えられ、危機介入の面接技法やデブリーフィングにも修正を要する可能性がある。このような比較文化精神医学的視点をも災害精神保健は必要とする。ここでは比較的容易に実践可能と思われる災害精神保健に関するいくつかの提言を述べたい。

@メディア、被災地域内での広報活動などを通じての災害時の心理的反応の啓蒙。災害とA「心のケア」チームの一般科病院への派遣

B遺体安置所への派遣

C身体治療救援チームとの連携

D「心のケア」提供者の専門性による役割分担

 さらに以下は災害発災前からの災害精神保健における備蓄、予防に関する提言である。

@医療関係者等への災害における心的反応や精神的援助に関する研修

A災害精神保健関係の専門家の養成

B災害医療関係者と精神保健関係者などの平時からの連携(リエゾン)

C災害精神保健的視点をも踏まえた防災訓練

D市民への普及

 ・救急法、蘇生法などの市民講習、自動車教習への危機時の心理的反応や対応法等のコースの追加

 ・マスメディアによる普及

INDEX

 


Disaster Medicine: What is Our Mission?


Steven Rottman,M.D.,FACEP

Professor

UCLA Schools of Medicine and Public Health

Naturally occurring change in earth's geology and climate,coupled with advances in industrial technology, have led to a relentless rise in mass population disasters. Moreover, armed conflict continues to cause casualties and overwhelming numbers of combined refugees and internally displaced persons. As a result of these combined factors, the demand for medical relief services has risen throughout the last decade,reaching the present circumstance in which the need for appropriately trained and equipped disaster workers is far outstripping their availability.

The experiences of many receiving countries have shown that the qualifications and mission goals of different relief organizations very greatly. This has led to recurring difficulty in getting appropriate assistance of personnel and medical equipment into affected areas within a critical time frame. Fueling the sense of urgency is the news media attention, which tends to concentrate on the emotionally charged impact of the immediate phase of a disastrous event, further stimulating international relief responses. Some relief agencies stress immediate response for search and rescue, while others concentrate on the acute medical care of badly traumatized victims. Different protocols for response teams have been put forth by many different organizations,making organization disaster managers.

After the drama of the first few days, considerably less ongoing publicity is giving to the less exciting, longer term needs of the much greater numbers of the affected displaced population,including the provision of the affected displaced population, including the provision of safe water, proper nutritional care and adequate shelter during both the immediate and reconstruction phases of homelessness. There needs to be greater attention paid to public health concerns, particularly in the areas of environmental health and communicable disease surveillance and control.

By considering several phases of disaster response,targeted areas for improvement might be identifield. In sudden incidents, with a finite beginning and of short duration, there is an immediate response phase, characterized by responses of uninjured survivors,local emergency service agencies, search and rescue activities, and evacuation and acute care for the injured. Following this acute phase,there ensues a longer, chronic phase, during which care must be provided for the many homeless and those psychologically impacted by the disaster.

In war or famine the situation is very different. The disaster event is protracted, for months or years. Entire populations are rendered homeless as result of crisis migration. Long term needs must be met for security, food, shelter, and disease surveillance. By the turn of this century, it is estimated that one out of every eight people in the world will be, at least for some time, displaced from their homes.

How, then, might the many disaster medical societies focus their efforts to make a positive impact on these often overpowering situations, whether caused by nature, or by man ? We should seek consensus of the types of relief which are needed, and not needed, at deferent stages of disasters. We must recognize that there are legitimate differences in response capabilities, and become expert at the segment of relief which our organizations do best. The large numbers of relief organizations should be catalogued by skill level and geographic location. An accepted standard for each level of relief services should be sought, based both on recent experiences of recipient countries and the relief organizations themselves. To further this goal, Interaction, the association of non-governmental relief agencies in North America, has recently put forth an initiative to establish several university based training facilities in the United States. Relief agencies would be able to send their staff to these sites for a standardized course of study in various areas of disaster relief, leading to what anticipated to be a universally recognized certificate.

The many large scale disaster experiences of the past ten years have yielded a common theme: despite everyone's concerted effort,there remain great difficulties inherent in providing comprehensive disaster planning ,immediate responses, and protracted relief. In order to define the variables which make this type of medicine so terribly difficult to practice, research in the critical field of disaster relief is badly needed. Unfortunately, the complexity and unpredictability of natural and most man made catastrophes render them impervious to the quantitative methodology we so earnestly seek in the form of double blinded, placebo controlled research. Instead,the "home"for disaster research lies in the realm of qualitative research methods. It is only through, thoughtful investigations of the circumstances which lead to mass population emergencies and the strategies employed in responding to them, that we will develop the composite approach to future planning and response,and the analysis of both.

In summary, then, while our mission in disaster medicine is very broad, we often become factionalized,looking at ours as the true critical activity needed most by the affected region. This is simply not the case. Relief organizations must look openly at all stages of the problem. We must consider that our immediate care responses must necessarily give way to the more protracted phase of humanitarian assistance. There is plenty of work for everybody and, unfortunately, we can expect this to be the case for the foreseeable future.

INDEX