第5回日本集団災害医学会 パネルディスカッション

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抄録(
一般演題1-24,25-56),シンポジウム,パネルディスカッション,緊急報告(臨界事故),特別講演


集団災害医学会発足後5年間の災害をふりかえって 


─あの災害後何が変わった?災害医学における進歩と今後の課題─

 


基調講演  最近5年間の主要な災害のまとめ

日本医科大学救急医学 山本保博

 


P-1 北海道南西沖地震の教訓と今後の展望

札幌医科大学医学部救急集中治療部

浅井康文,丹野克俊,奈良 理,森 和久,吉田正志,伊藤 靖,今泉 均

 

北海道南西沖地震は1993年7月12日22時17分頃に発生した.すなわち北海道の南西沖で,震源の深さ34Km,マグニチュード7.8の地震が発生し,震源地の間近に位置した奥尻町を約5分後に大津波が襲った.この北海道南西沖地震は,日本集団災害医学会発足のきっかけとなった災害である.種々の教訓を残し,これ以降大津波の災害はないのでその後の復興状況を含め報告し,北海道の災害医療の現状を報告する.

北海道南西沖地震の概要は,

1. 地震,大津波,火事,山崩れの,四つが重なり,死者230名を出した.

2. 自衛隊(陸上)から,日本で始めて,医療団がヘリコプターで派遣された.

3. 重症例を,ヘリコプターで,北海道内に搬送した.

4. 大津波を過去に経験し,早期警戒警報にかかわらず,多数の死者を出した.

5. マスコミ関係者が災害時おり,スクープ報道され,義援金を含む,多くの援助がなされた.

6. 災害後ストレス症候群(PTSD)が報告された.

この災害で得た多くの経験が,1995年1月17日の阪神淡路大震災に生かされなかった.そしてヘリコプター搬送は通常運行していないと災害時対応出来ない事が指摘された.

北海道南西沖地震後,奥尻町や,対岸の檜山などの被災地は復興し,1998年に復興宣言が出された.その間,奥尻町では防災への備えとして,デジタル化された防災行政無線システムに更新し,世帯全戸に専用受信機を配備した.また防潮堤,鉄筋の建物の増設,津波シェルターのごとき1階を吹き抜けにした青苗小学校の建設,青苗地区の5mの地面のかさ上げ,青苗空港の滑走路の延長,ヘリポートの夜間照明設備,住民の防災意識の向上,防災ハンドブック作成,蘇生法の訓練などあらゆる努力がなされている.この間,日本では被災者支援法の成立で個人復興の小さな一歩が踏み出された.北海道の災害医療の現状を含め報告する.

 


P-2 名古屋空港中華航空機エアバス墜落事故

三重大学医学部付属病院救急部 千種弘章

 

事故の概要;1994年4月26日20時16分頃、名古屋空港で中華航空の台北発名古屋行きエアバスA300?600R機が着陸に失敗し、滑走路の南端に墜落飛散炎上した。

搭乗総員271名のうち、生存者16名が病院に搬送されたが長期生存者は7名(2.6%)であった。関係者約2000名の夜を徹しての献身的な活動により、乗員乗客全員の救出収容および身元確認が短期間に完遂されたことは、国際的にも高く評価された。

<その後の整備と今後の課題>

(情報伝達)・情報伝達の円滑化を図るため、愛知県医師会内に置いていた県医師会災害本部が広域災害・救急医療情報センター内に移設された。

・ 愛知県医師会無線が関係医療施設に設置され、通信手段の多重化が図られた。

・ 空港と消防本部の間にホットラインが新設された。

・ テレビのテロップを見て駆けつけた医師も多く、訓練による情報伝達の迅速化を図る一方、マスメディアとの協力体制の構築も課題である。

(初動体制)・空港内に医療施設はなく、医療救護班(トリアージ班)の迅速な現場到着のためには、空港へのアクセス道路(ファイアーレーン)の整備や救急ヘリの活用などの検討が必要である。

・ 緊急車両を標示するステッカーが、より見やすく改良され、空港用防災服や防災靴などが県医師会救護班のみならず、周辺病院の医師・看護婦にも支給された。

・ 空港への緊急進入口として3ケ所が指定され、夜間標識が付けられた。

(現場活動)・指揮本部の標識を大きく高くし、さらに夜間でも目立つものに改良された。

・ 空港用医療作業車(トレーラー)の積載内容の充実がなされた。

・ 空港消防隊に照明車が、直近の消防分署に化学消防車が増車された。

・ トリアージタッグの統一がなされた。(当時、3種類が用いられた)

(訓練)・事故前すでに2回にわたる合同訓練が行われていたが、事故後、毎年行うこととし、その内容も充実してきている。訓練を通じ顔馴染みの関係をつくることも重要である。

 


P-3 台湾中部大地震における初動期の緊急医療対応に学ぶ阪神・淡路大震災との比較検討

神戸大学医学部 災害・救急医学

石井 昇、中山伸一、松田 均、岡田直己、豊田泰弘、宮崎 大

 

平成11年9月21日に起きた台湾中部大地震における初動期の緊急医療対応について、5年前の阪神・淡路大震災時の医療対応との比較検討を行い、我が国の災害時医療対応のあり方について考察を加え報告する。

【結果】(1)地震の規模・発生時刻および人的被害状況等の比較:地震の規模はM.7.6と阪神大震災(M.7.2)に比べて大であったが、人的被害は死者2329名、負傷者8722名と比較的少なかった。これは、阪神大震災は都市直下型であったが、台湾地震は中都市・山間部型であった。また発生時刻は深夜の午前1時47分であったことが関係し火災発生は1件のみであった。(2)緊急医療対応の比較:台湾地震では一部の山間部を除けば「迅速な初動期対応がなされた」と評価がされる。その要因として、地震発生直後台湾全島が停電となったが、@被災地の行政機能の被害が少なく、台中県の災害対策本部は発災1時間後に立ち上げられたこと、A無線やケーブルTVによる情報収集・伝達が有機的に働いたこと、B国民性としての自主防災意識が高かったこと、C対中国との関係等からの軍隊保有の危機管理体制のもとに指揮命令系統の一元化が実践されたことなどが挙げられる。特に、緊急医療対応の面においては、D被災地外の大病院から迅速かつ自主的な救護班派遣がなされたこと、Eさらに仏教会やキリスト教会等のボランティア組織も自主的な救援活動がなされたこと、F交通渋滞も少なく、軍保有のヘリコプターを中心とした被災地外への患者搬送や医療物資の供給が速やかに遂行されたことである。Gまた多機関調整として現地災害対策本部が設置されたことにも注目したい。

【考察】台湾地震における緊急医療対応は、極く一部医療機関への患者集中がみられたが、阪神・淡路大震災時に問題となった、被災地の行政機能の麻痺は少なく、情報収集・伝達の混乱も少なく、早期の自主的な医療救護班派遣やヘリコプターによる患者搬送がなされたことにより、人的被害が相当に軽減されたものと推察される。したがって、我が国の災害医療対応として学ぶべき点は、@初動期対応における多機関連携の調整を行う現地災害対策本部の設置方法、A災害拠点病院からの迅速な医療救護班の派遣体制の確立(rapid SRM)、Bヘリコプターによる広域搬送システムの確立の3点が急務と考える。

 


P-4 災害医学の進歩と課題 東京地下鉄サリン事件で何が変わったのか

川崎医科大学 救急医学

奥村徹、宮軒将、熊田恵介、高須伸克、石松伸一、荻野隆光、福田充宏、

鈴木幸一郎、藤井千穂、小濱啓次

 

 東京地下鉄サリン事件は、人為的集団災害でありテロリズムであった。しかも従来のテロリズムと違って、国際的には米国オクラホマの連邦政府ビル爆破事件と並んで、相手との交渉の余地がなく大量殺戮そのものが目的となっており、ニューテロリズムと呼ばれている。また、テロリズムに化学兵器が使われた史上初の事例でもあった。それらの意味で本事件は国際的に危機管理上のwake-up callともいわれる。本事件の残した災害医学上の課題は、集団除染体制と、より効果的な災害・中毒情報管理システムの確立に集約されるが、本事件の後5年を経て何が変わったのかを、この二点を中心に検討する。

 前者の集団除染に関しては、システムを導入するにも、数年前までは、国内に製造元がなく、輸入を仲介する業者すら存在しなかったが、現在では予算と防災関係者の熱意さえあれば導入できるようになった。今後は各都道府県や政令指定都市毎に消防機関のHazmat Teamの機能強化の一環として、また、災害拠点病院における化学災害対応能力向上の意味で、現場と医療機関の二段構えの集団除染システムの構築が望まれる。この集団除染システムは化学災害に限った概念ではなく放射線災害にも応用できることにも注目したい。また除染においては今後検討されるべき課題も残されている。除染に対応する各レベルの個人防護装備の適応や、除染後の廃液処理の問題などは、現在でも国際的に最終的な結論は出ていない。

 後者の災害・中毒情報管理は、如何に効果的なインシデント・コマンドシステムを確立できるか、ということでもある。しかし、各地方自治体には対応能力を望むべくもなく、内閣官房安全保障・危機管理室が重大ケミカルハザード専門家ネットワークを組織し、関連省庁や自治体の関連組織、専門学問分野の枠を越えた活動が始動している。また、厚生省主導の広域災害・救急医療情報ネットワークも構築されつつあり、毒劇物分析装置も全国の救命救急センターに配備され、自己完結的な毒劇物分析も始まった。しかし、中毒情報センターの機能強化、各関連機関のさらなる連携強化、各都道府県における公的情報ネットワーク導入への足並の乱れなど、残された課題も多い。

今後は、化学テロリズム、化学災害対応強化と同時に、生物兵器、放射性物質を使ったテロリズムへの対応も強化されるべきであり、本邦における対応は、諸外国のそれと比較すると、かなりの遅れをとっている。地下鉄サリン事件の教訓は当事国である日本より、むしろ海外に於てより生かされている、といわれるゆえんである。

 


P-5 腸管出血性大腸菌O-157による集団食中毒事件(1996)

関西医科大学高度救命救急センター 田中孝也 松尾信昭 石倉宏恭 武山直志

 

平成8年7月, 大阪府堺市で腸管出血性大腸菌(O-157)による未曾有の学校給食による集団食中毒が発生した。 今回, 発生概略とその後の対応に関して検証し, 今後の一助となることを期待する。 なお, 同年は堺市以外の府下一円にも本感染症が多発した。

1.平成8年における本感染症の主たる経過

6月21日 河内長野市の保育園児・家族11名から0-157検出。

7月 8日 知事が食中毒キャンペーン実施。

   堺市立小学校の児童が腹痛, 下痢などの食中毒の初発症状を自覚。

7月11日 児童初発症状が最多となる(250名以上)。

7月13日 318名が下痢,発熱や血便症状にて医療機関を受診, 40名入院。

7月15日 受診人数が最多となる(350名以上)。 大阪府より堺市に食品衛生監視員派遣。

「堺市対策本部」の設置。

7月17日 府,堺市,厚生省からなる「三者連絡調整会議」の設置。

7月19日 羽曳野市内の老人ホームの33名にO-157検出。

7月23日 「大阪府対策本部」の設置。

最初のO-157による死者発生。

7月24日 カイワレ農家への第1回立ち入り調査。

7月25日以降 以後, 専門家会議設置,厚生・総理大臣への要望書,市民への予防対策等が施行される。

8月6日 O-157が指定伝染病に指定される。

11月1日 堺市によるO-157安全宣言。

2.堺市での患者数および患者搬送状況

上記の期間に何らかの症状を訴えたものは14,153名, 医療機関を受診したものは12,680名であり, 検便陽性者は16,111名中の2,764名であった。 うち, 学校給食によるO-157罹患が確実と判断されたものは9,492名であり, 児童・教職員83.4%, その家族12.4%, 一般市民4%であった。 学校給食関係者のうち菌陽性者は1,889名, 全発症者の内の入院患者は791名, うち121名がTTP/HUSを発症し, 3名が死亡した。

医療機関受診が急激に増加したのが土・日曜であったため, 医療機関は混乱を極めた。 しかも, 初期は原因が特定されていなかったため, その重症度に関しても十分認識されていなかった。 検体からO-157が検出されたのは7月14日であり, 以後, 急速に患者数, 入院数が増加した。 7月17日頃よりTTP/HUS症例が増加したため, 大阪府医療情報センターを介しての重症者の救命救急センター等への転送が開始された。 発症当初は堺市内の医療機関にて対応されていたが, 収容が不可能となった段階で, ベッドの確保, 重症者のトリアージ, 重症者の転送医療機関選別などを府医療情報センターが行うようになり, 比較的円滑に入院先が確保されるようになった。

3. 現在に至るまでの対応

発生から終息宣言までの期間に大阪府は原因究明, 二次感染予防と平行して, 1)府民への啓発(レーフレットの作成, キャンペーンの実施, O-157対策府民会議の開催, インターネット等による啓発, 人権啓発, 衛生教育の実施, 新聞等による啓発), 2)府民相談(ホットライン設置, 特別労働相談), 3)患者・家族への心のケア(相談事業, ケア週間設置, 健康相談, 教員向け指導手引き書作成, 研修, 説明会), 4)業者・施設向け衛生管理の強化(監視指導, 講習会実施), 5)食品検査等の強化, 6)屎尿等への衛生強化, 7) 河川における実態調査, 8)プール・海水浴場の衛生強化, 9)公衆浴場等の衛生指導, 10)飲料水の衛生管理, 11)養液栽培農家への指導, 12)食品流通分野への指導, 13)野外衛生施設への指導, 14)家畜に対する検査強化, 15)社会福祉施設への指導, などを実施した。 それ以降, 段階的に中止された項目もあるが, その骨子は現在まで受け継がれ, 新たに1)感染対策室の設置, 2)大阪府O-157対策本部運営(年4回開催), 3)感染症対策委員会運営, 4)継続的O-157に関する原因究明, 調査研究実施等がおこなわれ, さらに感染症担当者の研修, 臨床医への感染症研修も計画されている。

なお, 毎年, 堺市では慰霊祭が行われているが, 死者の家族は未だ出席していない。

 


P-6 和歌山カレー毒物混入事件(1998)

和歌山県立医科大学救急集中治療部

篠崎正博

 

 和歌山市で発生したカレー砒素混入事件は急性中毒患者が大量発生したテロ災害であった。67名の中毒患者が発生し、4名が死亡した。原因物質が特定できない中毒テロ災害についての今後の対策を検討する。 

 和歌山カレー砒素混入事件において、急性期の臨床症状は嘔気、嘔吐、下痢および腹痛の消化器症状、神経症状として頭痛、循環器症状として低血圧、皮膚粘膜症状として、早期より結膜炎症状、顔面浮腫、紅疹などが認められた症例もあったが、砒素中毒特有の症状ではなかった。また早期の異常検査所見では白血球数の増加、腹部X線撮影で消化管内に粟粒の砒素陰影が認められ、心電図では約50%の症例でQTの延長、T波の平定、陰性化が認められた。砒素中毒に特有の白血球数の低下、血清GOT、GPTの低下は服用後3日以降であり、またMeas線の発現などの爪の変化は数十日を要した。心電図の変化を除き、一般検査所見からも急性期の砒素中毒の診断は難しく、その診断に最も有用であるのは尿中及び血中砒素の検出である。しかし、警察に依頼した患者吐物の検査ではシアンが検出されたとの報告を受けたが、実際の中毒原因物質が砒素であったのが判明したのが1週間後であった。患者の治療に役立つ薬物毒物分析ができるセンターの設立が必要であると痛感された。その他、事件の全容についての早期情報および病院間の情報交換がなく各病院での対応が異なったり、またテロ災害としての対応がなされなかったなどが問題であった。 

 今後の対策として、1.毒物テロ災害に対するマニュアルの制定;毒物などによるテロ災害に対する教育、訓練をすべきである。2.地域および広域の医療情報網の確立;医療情報網として病院間のみでなく、行政、警察、一般家庭などを含む地域および広域緊急医療情報網が確立されるべきである。3.薬物毒物の分析センターの確立;現在薬物毒物の分析は救命救急センター、高度救命救急センター、大病院、保健所、都道府県市町村の公害センター、警察などでおこなわれているが、ほとんどが緊急対応できるシステムになっていない。患者の治療に役立つ緊急検査ができるような中毒分析センターの早期設立が望まれる。